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流動しながら、街の中で生きていく。(都市デザイナー・三文字昌也)

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あの人と出会ったこと、あのちょっとした仕事を受けたこと。人生が変わるきっかけは、案外ひょんなことだったりします。
今思えば転機だった「好きが仕事になった瞬間」を紐解いて、好きと仕事のはざまに転がるエピソードや、肝となる出会いが生まれる過程や想いなどをコラムで伺うこの企画。

今回は、都市デザイナーとして国内外で都市と建築の空間設計を始め様々な事業を手がけるかたわら、東京大学大学院でアジア圏の屋台・夜市にまつわる都市計画史を研究し、全国各地に台湾屋台ゲームの出店まで行う三文字昌也さんの、「好きが仕事になった瞬間」を伺いました。(マルシェル運営)

都市デザイナーと、ときどき大工とテキヤと。

都市デザイナーと、ときどき大工とテキヤと。
元来私は、なんでも新しいものに飛び付き、面白そうなことにどんどん移り気する性なので、言ってしまえば割となんでも好きだし、なんでも面白いと思ってしまう人間である。だからこそ、「好きなことを仕事にした」わけではなく、気がついたらやっていることは全て“面白そうなこと”だったし、その結果、好きと趣味と仕事との境界がなくなっていた、という感じだ。

私は現在、都市デザイナーと名乗って仕事をし、時々大工やゲーム屋台をやって生きている。なんじゃそりゃ、と思われる方も多いだろうが、やっていることを無理矢理まとめると、次の2つだ。

1つに、手を動かしてゲームや屋台、さらには内装から店舗建築などの“モノ”を実際に作り、それで商売をすること。
2つに、“まち”をもっと豊かな空間にしていくための都市スケールの設計や建物保全・都市再生のプランを練るお仕事。

とはいえ、ここで書いている以上のことも大好きだし、自分が「何屋さん」かずっと言葉にできずにいる。まだお尻が青い若造なので何も偉そうに言えないが、いろんな先輩方に教わりながら模索しているところである。今の所どうにか食わせてもらっていることに感謝しかない。
 

やっていることは中坊の頃からあまり変わっていない。

やっていることは中坊の頃からあまり変わっていない。
振り返ってみると、今やっていることの原点は10代の頃にあった。

手を動かすモノづくりの原点は、通っていた中学と高校の文化祭だった。バンドやダンスや演劇をやって女の子にキャーキャー言われるタイプではなかった僕は、インパクトドライバーや丸ノコといった工具を握りしめ、近隣からくる子供たちを狙ったアーケードゲームを延々と作っている生徒だった(なお、子供にはモテた)。演出として昭和レトロ風な建物や看板も作り、校内の一角で異様な巨大レトロアーケードゲームコーナーを作り上げて悦に入っていたのであった。

なので、DIYや大工工事はもとより大好きだったし、家具や建築の収まりもなんとなくは分かるようになった。空間を自分の手で演出することは、ずっと好きだったのだ。

都市を見ることの原点も、同じく10代にあったように思う。
生まれた時から鉄ちゃんの僕は、中学生になると友人と休みになるたびに青春18きっぷを握りしめて全国への鉄道旅行に繰り出していた。当時は夜行列車や貧乏長距離快速もまだそこそこあり、重い時刻表をお供に安く全国を回ることができた時代だった。
当時はただ鉄道が好きで始めたこの旅行だったが、段々と、僕は鉄道そのものが好きなのではなく、鉄道の車窓から見える風景や、駅前の街を歩くことを楽しんでいるのだと気づいた。

青春18きっぷのおかげで16歳の頃には全ての都道府県のほとんどのまちを歩いたことがある人間に育ったが、今思えばなんと得難い財産になったことか。
おかげで今、どの地域のお話をいただいても、なんとなくまちの雰囲気は分かるし、それぞれの都市の構造骨格のようなものも掴めるのだ。都市というものが地域によって如何に違うのか、古い建物や街並みがどのような意味を持つのか、そしてその地に生きる人々の暮らしを見ることがどれだけ豊かなことか、気付かされた。
 

専門を選んで、台湾に学ぶ。

専門を選んで、台湾に学ぶ。
そんな中高時代を経て大学に進学したが、自分が「何屋さん」になるのか決まらないままにふらふらしていた。大学での専門は都市計画を選んだが、「オラは都市計画をやるぞ!」という積極性ゆえではない。お世話になっていた先輩に誘われたからだ。

その頃から、バイト代や奨学金をやりくりして海外に行くようになった。初めて行った台湾で、DIY的なリノベーションが各所で行われているのを見た。若い人たちが自分でカフェやゲストハウスを経営している光景を見て、憧れを覚えた。日本の「リノベーションブーム」の少し前だったように思うが、思ったより気軽に、自分たちの手でまちを作り替えてゆくことができるのだな、と感じた。

何より魅了されたのは「夜市」だった。公共空間がいきなり「熱鬧」な場所へと変わる、こんなにもダイナミックな営みがあるとは!かつて自分の高校で巨大レトロアーケードゲームコーナーを作って悦に入っていた元少年は、台湾夜市のもっともっと面白く魅惑的なゲームたちに魅惑されたのだった。一つ一つの商売は元手がそこまでかからないのに、そんな小さな商売の集積でこんなにも大きなコンテンツになることに感動した。
その時、今まで自分が好きだったことと、都市計画という専門がしっくり結びついた気がした。なぜ日本の都市には「夜市」がないんだろう、と思いながら。
 

流動する会社を作ってみる。

流動する会社を作ってみる。
そうして学生をやりながら、自分でも色々とやり始めてみたのが大学院に入ってからだった。いろんな地域でマルシェをやったり、呼ばれて出店をやってみたり、台湾夜市のゲームを作って出してみたり。そのうち、店舗の設計やDIYの大工仕事、まちづくりの研究調査を頼まれ、報酬をいただくということがチラホラ増えてきた。

とはいえ当時は飽くまで学生かつ素人のペーペー。このまま生きていくことができるのか、不安なままではあった。
僕を救ってくれたのは、大学院を出る間近に出会った、一緒に会社でも作ろうかという相方たちである。僕自身は当時一切興味のなかった経営や経理ができる相方など、専門が全く異なる仲間たちと会社を作ることになり、就職せずにいきなり独立という選択となった。まるで中学生バンドのような創業だったのだが、とりあえず会社でも作ればなんとなく死なない気がしたのだった。実に無謀である。

しかし、こうして各々バラバラに好きなことをやってきた人間が複数人集まると、意外に良い。一見仕事に結びつかなさそうな経験も、言語化し仲間と整理してみると、意外にそれぞれが関係してくるのだ。

そうして出来た「流動商店」という会社だが、この言葉は中国語で読んで字の如く、流動する商店、つまり屋台のような商売を指す。屋台業が本業というわけではないが、僕たちの仕事のスタイルにぴったりだと思っている。

おそらく多分そんな社名のせいで僕は“流動”し続けているのが、相方含めいろいろな人々に、僕がやっていることにはこんな意味があるよ、という「整理」と「翻訳」をしてもらって、なんとか仕事をしている。つくづく、これは1人ではできないことだった。そうして僕を面白がってくださり、意味を与えてくださる方々に今日も僕は生かされている。
 
■Profile:
三文字昌也

神奈川県生まれ、東京大学大学院都市工学専攻修士課程修了。都市デザイナー・建築士。
2018年に合同会社流動商店を起業し独立。国内外で都市と建築の空間設計、計画策定、建築空間のリノベーション活用等の事業を行いながら、現在も東京大学大学院の博士後期課程で都市計画史の研究を続けている。文京建築会ユースや東京文化資源会議・本郷のキオクの未来PJ・一般社団法人せんとうとまちの立ち上げなどに参画、銭湯など地域文化資源の記録保全活動も行っている。
主な受賞に、2017年第19回まちの活性化・都市デザイン競技国土交通大臣賞(チーム)、2018年トウキョウ建築コレクション全国修士論文展グランプリ。

https://masaya.sammonji.com/
https://ryudoshoten.tokyo/